フランスの一部
Parabootブランドの歴史を発見、または再発見してください。フランス産業史を背景に、情熱的な男女が出合い人間の冒険が始まりました。 家族の運命を社運に繋げ、既に4代目です。
伝統と大胆さ、そしてイノベーションの混ざり合う特別な世界へ、良い旅を。
Parabootはその歴史に新たなページを刻むのです。
Izeaux (イゾー)と Fures(フュール)の二つの工場を閉鎖し、全業務がSaint Jean de Moirans(サン=ジャン=ド=モワラン)に集約されました。
1945 -2015: Michaelモデルの70年。時代、反骨精神、流行を横断して
原点を忘れることなく社会とともに進化する、どの年齢層にも履きやすいモデル。世界中で、そのネームバリューを堂々と背負っています。 「再検討」とコラボレーションを繰り返して、このモデルは、感動に満ちた70年を生きてきました。
ファミリーの伝説は続く
生産にMarc-Antoine、コレクションにClémentineが加わり、Parabootは4代目に引き継がれています。
都市にむけた新しい方向性
これらのコレクションは、今後、より都会的で、最も質の高い素材から、ブーツ職人の伝統的な製造方法により作られることを目指すことになります 。 贅沢品ではなく、高級品としてのポジションに位置づけしたのです。 Parabootは、メンズコレクションをただレディースにするのではなく、新たに真のレディースコレクションの創作を手がけることで多様化もしていきます...
「MICHAEL」がParabootの消滅を救う
商事裁判所と交渉しながら、Michel Richardは、イタリアで、より画期的な材料を探します。 また、彼は利益を上げているイタリアの靴製造社の経営方法を理解しようとします。そして、ついに...
暗黒の時代
商品と人との交流には長けてはいたが、経営には向いておらず、利益その他財務比率には無頓着であることを認識していたJulienは、戦後の経済急成長の栄光、急ぎすぎた経営拡大、増加し続けるインフレーションと簡単に借りてしまった借金のため、窮地に陥ってしまった企業を合理化するため、1973年に、国際企業で退屈していた息子 Michelを呼び寄せます。
方向転換:究極の靴の製造へ
スキー靴にはすぐに見切りを付けましたが、新しいヒューマンアドヴェンチャーを生む他のスポーツ靴の製造に取りかかります: 1970年には、空の婚約者たちと言われたGil DelamareとColette Duvalの為に作った靴は、パラシュート競技の世界チャンピオンであるフランスチームのために製作する靴の原点となります...
登山への情熱:「Galibier」ブランドの変化、そして成功!
Julien Richardは他にも、技術的、特殊性を持った靴を必要とする分野、そして流行となりつつあった趣味のスポーツ分野に需要を見つけようとします。 実用的な靴、「Paraboot」の陰に薄れてしまった「Galibier」ブランドは、スキー、アフタースキー、登山靴の最初の象徴となったのです...
斬新な賭け:手縫いの靴だけの製造へ
Rémy Richardの息子、Julienは、20歳になった1937年に、この会社に入ります。 戦争が勃発、そして軍事占領下、原料不足のため、生産が落ちていきます...
Parabootブランドの商標登録
1927年にRémy RichardはParabootの名前を商標登録します。これは、テラックスを輸入するアマゾンの港「Para」と彼がアメリカ合衆国で発見した興味深いBootを合わせた名前です。 アングロサクソンのモードをマーケティングのために作られた、どこでもあるようなブランドとは全く違うのです。ここで、Parabootの技術とスタイルが生まれたのです!
ラバーはParabootブランドの「DNA」
パリ、ロンドン、アムステルダムなど、Rémy Richardは旅を好み、多くの賞(メダル)を獲得するトレードショウに出かけるようになります。 1926年、英語を一言も知らずに、Rémyは、アメリカ合衆国行きの船に乗り込みます。 改革に興味を持つ彼は、アメリカ人が履いていたラバーブーツに目を付け、ラテックス、ヘヴェアまたはゴムと呼ばれる全く新しい素材に輝きを見出します...
「Chaussures Extra」の第一歩
パートナーとして会社に入れたもう一人のエージェントの紹介で、RémyはSarthe県の裕福な公証人の娘、Juliette Pontvertと出会います。 Rémyは1910年にJulietteと結婚、RichardPontvert社を設立します。花婿は、ノウハウ、デッサンそして道具一式を、花嫁は資本金としての持参金を持ち寄ります。そして、Rémyは「Chaussures Extra」ブランドと洗練された高級シューズコレクションを立ち上げます 。
Rémy Richardの斬新さと自発の精神
19世紀の後半。アルプス山脈の麓にある小さな村、Izeauxから始まりました。 1878年、質素な農家に生まれたRémy-Alexis Richardは、Izeaux村にある靴工房20軒の一つ、Chevronの靴革裁断師 となります。これらの工房は...
Parabootはその歴史に新たなページを刻むのです。
Izeaux (イゾー)と Fures(フュール)の二つの工場を閉鎖し、全業務がSaint Jean de Moirans(サン=ジャン=ド=モワラン)に集約されました。
環境にやさしい近代的工場で業務が効率化し、情報伝達もスムーズになりました。 Paraboot は、東京の一等地銀座、そして札幌にそれぞれ一店舗ずつブティックをオープン。パリのPrintemps(プランタン) とGalléries Lafayette(ギャラリー・ラファイエット)にも再び商品が置かれるようになります 。
1945 -2015: Michaelモデルの70年。時代、反骨精神、流行を横断して
原点を忘れることなく社会とともに進化する、どの年齢層にも履きやすいモデル。世界中で、そのネームバリューを堂々と背負っています
再考とコラボレーションを繰り返して、このモデルは、感動に満ちた70年を生きてきました。 Paraboot、日本で二店舗目を大阪にオープン。新しいコンセプトを披露します
Parabootネットワークの進展
IzeauxにあるParaboot本社は、靴の世界で「メイド・イン・フランス」と「手縫いの靴」という数少ない紋章の一つになります。
既に世界4カ国に開店したブティックで販売されています:1994年に、アンヴェール(ベルギー)、2001年に東京(日本)、2003年に、ブリュッセル(ベルギー)、2012年に北京と三亜(中国)に進出。Parabootは世界的基準となります。
都市にむけた新しい方向性
これらのコレクションは、今後、より都会的で、最も質の高い素材から、ブーツ職人の伝統的な製造方法により作られることを目指すことになります。
贅沢品ではなく、高級品としてのポジションに位置づけしたのです。
Parabootは、メンズコレクションをただレディースにするのではなく、新たに真のレディースコレクションの創作を手がけることで多様化もしていきます。
投資銀行の援助で、資本金を増やしたParabootは、独自の販売網を確立します。
1987年にパリ、リヨン、ニースに独自の名前で最初の店舗がオープンしました。/p>
「MICHAEL」がParabootの消滅を救う
商事裁判所と交渉しながら、Michel Richardは、イタリアで、より画期的な材料を探します。
また、彼は利益を上げているイタリアの靴製造社の経営方法を理解しようとします。そして、ついに、イタリアの流行服を手がける販売業者「WP lavori in corso」と出会い、交渉までこぎ着けます。
イタリアのスタイリストたちは、「男は外見を変えるべきだ」と断言します:暗いコスチューム、ワイシャツにネクタイ、薄いソールのモカシンは終わりだと。
その変化を実現するために、必要なもののすべてがイタリアにありましたが、大きなソールの靴だけが無かったのです。そこで、スタイリストたちは、Parabootのモデル「Michael」を発見するのです。
この「Michael」の選出がParabootを消滅から救ったのです。
この流行はすぐに浸透し、注文が殺到し、製造プランは安定します。
昔から一緒に仕事をしてきた納入業者たちは、破産申し立てにも関わらずParabootと共に仕事を続けてきたのです。
暗黒の時代
商品と人との交流には長けてはいたが、経営には向いておらず、利益その他財務比率には無頓着であることを認識していたJulienは、戦後の経済急成長の栄光、急ぎすぎた経営拡大、増加し続けるインフレーションと簡単に借りてしまった借金のため、窮地に陥ってしまった企業を合理化するため、1973年に、国際企業で退屈していた息子 Michelを呼び寄せます。
その経営危機は、時代の変化と、第一オイルショックが起こったためでした。
この頃のビジネス界では、厳格さが求められ、社会と銀行関係すべてにおいて、厳しい規定を守らなければならなくなり、組合と銀行は前程信頼を置くことが出来なくなりました。
1979年、Julienは銀行の態度に完全に嫌気がさし、息子に経営のすべてを任せます。彼は、事務所を去ったその日から二度とそこへ戻ることはなかったのです。
入社6年目のMichelは、「利益がでる」市場のみへの生産に絞り込み、生産力を上げながら雇用費用の削減、情報処理の普及、生産過程の合理化、価格を上げずにコストのカットを行うことで、予算作りの均等をはかり、銀行からの融資に頼らない経営を目指します。
しかし、80年代はじめ、売り上げの45%を輸出に頼っていた小さな靴工場はドルと円の暴落の影響を受け、多くの顧客を失います。残った顧客の多くは、購入した靴の支払いさえ滞ってしまいます。
苦しい状態が2年間続き、1983年の終わり頃、Michel Richardは破産の申し立てをしますが、組合と商事裁判所はこの会社の未来に信頼を置き、経営続行を承認します。
方向転換:究極の靴の製造へ
スキー靴にはすぐに見切りを付けましたが、新しいヒューマンアドヴェンチャーを生む他のスポーツ靴の製造に取りかかります。
1970年には、空の婚約者たちと言われたGil DelamareとColette Duvalの為に作った靴は、パラシュート競技の世界チャンピオンであるフランスチームのために製作する靴の原点となります。
1971年には、アデリーランド探検をしたPaul-Emile Victorのために、特殊なブーツを作ります。 Haroun Tazieffには、火山の研究のための靴を作ります。そして、コンコルドとエアバスのパイロットであったAndré Turcatの為に靴を作り、それは、今も戦闘機のパイロット靴のモデルになっています。
バイク、乗馬、カントリースキーの世界も例外ではありませんでした。
Richard-Pontvert社は技術を必要とする靴を製造していき、また1972年にはAlvieraにスケートシューズ製造工場まで設立します。
社員は650人までになるのです。
登山への情熱:「Galibier」ブランドの変化、そして成功!
Julien Richardは他にも、技術的、特殊性を持った靴を必要とする分野、そして流行となりつつあった趣味のスポーツ分野に需要を見つけようとします
実用的な靴、「Paraboot」の陰に薄れてしまった「Galibier」ブランドは、スキー、アフタースキー、登山靴の最初の象徴となったのです
Julienは、個性が強く、誠実な人々が集まる新しい世界に出会います。 彼の家には、最も有名なアルピニストたちが集まってきたのです:Herzog, Mazeaud, Terray, Desmaison, Pollet-Villard, Royal Robbins…
Julienは、大衆的に流行し始めたスキー靴の製造より、登山、ロッククライミングの「山」関連の靴製造へと方向を移します。そして数年後、「Galibier」ブランドは、フランス国内と海外で技術的な靴のリーダーとなります。Richard-Pontvertは、登山家がいるすべての場所、日本、アメリカ合衆国、イタリアなどに輸出を始めます。
このように、工場を実際に動かしていたのは、「Galibier」であり、Parabootではなかったのです。
斬新な賭け:手縫いの靴だけの製造へ
Rémy Richardの息子、Julienは、20歳になった1937年に、この会社に入ります。 完璧で成功した父の後で、会社経営を継ぐことは簡単なことではありません。 彼の幼少時代は、両親のもとを遥か遠く離れた複数の寄宿舎で過ごし、卒業証書だけを手に持って帰ってきます。
戦争が勃発、そして軍事占領下、原料不足のため、生産が落ちていきます。 その場しのぎで質の悪い木製ソールの使用に戻ることになります。また、工員は工場での仕事と、生産物が再分配される借用畑の耕作とを交互にするようになります。 戦争が終わると、不足していた物資を手に入れたいという欲望が、工場を再起動させますが、その状況は一変します。戦争は、化学を発展へと導きます。
新しい靴工場が次々に作られます。そこでは、あまり技術が無い職人でも作ることが出来るシンプルな製造、楽に靴の胴に貼付けられるプラスティックのソールを導入します。このような使い捨てと安い靴は、長い間の物資不足で苦しんだ後、早く、安く買いたいという消費者達には適していたのです。 古い伝統的な工場は、現代的経営が出来ずに、工場を閉めていきます。
その中、Richard-Pontvert社は、約50人の職人を抱えていたのです。
息子のJulienは、経営者として一人、あるジレンマと向き合わなければならなくなります;他の工場と同じように、「貼る」製法を取り入れるか、Richard-Pontvert社の今までの顧客にしぼり、それに合わせた製法を守り抜くかの2つの選択でした。
技術者ではなかったが、町や社交場よりも、自然、狩猟、釣りを愛したJulien Richardは重いソールと厚い皮を使用した靴を中心に製造することを決心します。 「グッドイヤー」製法 と「 ノルヴェージャン 」製法により縫い付けられた靴は、丈夫でありながら、履き心地が良い靴に信頼を置きたい農業者、馬商人、肉屋、羊飼い、配達人、工員、職人など 、立ち続ける職業に適していたのです。
同時に、Julienは、技術者向け編み上げ靴の製造を始めます。建築家、測量師、獣医の為により「軽い」モデルを製作します。それが、モデル「Morzine」の始まりです。1945年には、伝説の「Michaël」が製作されます。
豊富な人脈と広報センスの人、Julienは、自分の出会いと直感で家族経営企業を運営していきます。彼は「素朴な」製品を選びました。
Parabootブランドの商標登録
1927年にRémy RichardはParabootの名前を商標登録します。これは、テラックスを輸入するアマゾンの港「Para」と彼がアメリカ合衆国で発見した興味深いBootを合わせた名前です
アングロサクソンのモードをマーケティングのために作られた、どこでもあるようなブランドとは全く違うのです。ここで、Parabootの技術とスタイルが生まれたのです!
その一方で、Rémyは「Extra」ブランドとして、より柔らかい絨毯を歩くために、薄い革製ソールを使用したより洗練された靴も作り続けます。この不思議な2つの製造の組み合わせは続いていきます。
Rémyは、 独学家、センスが良く、人生という学校しか経験していない特別な人物なのです。 彼は、控えめな性格にも関わらず、外の世界にいつも目を向けています。自分のコレクションを発表するために、ル・リドを借りることも、Harcourt出版社で 写真を撮ることも、正装することも惜しまなかったのです。そして、あまり流行ることが無かったちょっと変った最新作、ラバーのつなぎ服を着て、セーヌ川を≪浮かぶ男≫のデモンストレーションのために、フランス大統領を招待さえしたのです。
ラバーはParabootブランドの「DNA」
パリ、ロンドン、アムステルダムなど、Rémy Richardは旅を好み、多くの賞(メダル)を獲得するトレードショウに出かけるようになります
1926年、英語を一言も知らずに、Rémyは、アメリカ合衆国行きの船に乗り込みます。 改革に興味を持つ彼は、アメリカ人が履いていたラバーブーツに目を付け、ラテックス、ヘヴェアまたはゴムと呼ばれる全く新しい素材に輝きを見出します。そこで、この素材とノウハウを、 新しい工場を購入したばかりだったTullins Fures (Izeaux近隣の小さな町)に持ち帰ります。
そして、釜で加硫させ、木製のアッパーの上に手で置いたラテックスの層により防水性を保証する長靴とブーツの製造を始めます。
Rémy Richardはこの世界の革新者ではありません。 フランスでは、1853年にHiram HutchinsonがすでにAigle グループの祖先であるラバーブーツの工場を設立しています;彼は、ゴム合成製法の考案者であるCharles Junior Goodyearと、数年前にミシンを完成させ、自分の名前を機械に付けた父親、Charles Gooyearの特許権を買収します。
しかし、「Vibram 」ブランドの創立者、Vitale Bramaniが発明する11年前に、Rémy Richardは登山靴のためのノッチ靴底を発明します。このように、歴史は運命を交差するのが好きなのです。
そして、Rémyは、 高くは無いが履き心地が悪く、すぐに悪くなる革製ソールの変わりに、ラバーを使用することを思いつきます。 でも技術が足りなかったのです。Rémyが知っている製法は、靴(胴部分)の革部分を、木製ソールまたは革製ソールに釘付けにする方法だけです。
そこでRémyは、アッパー部分にまず縫い付けられ、そして、液体のラテックスで張られたより厚いゴムソールの上に張られる薄いゴムソールのシステムを完成させます。後は、ゴムの合成法の問題が残っています;ヘーゼルナッツオイルの古いプレスがワッフル焼き器と同じ方法によって、鋼鉄の型でソールを加熱、つまり加硫する事を可能にしたのです。
それ以降、すべてのワークブーツには、ラバーソールが使用されるようになります。そして、これはRichard Pontvertの工房での生産のシンボルとなります。
「Chaussures Extra」の第一歩
パートナーとして会社に入れたもう一人のエージェントの紹介で、RémyはSarthe県の裕福な公証人の娘、Juliette Pontvertと出会います。 Rémyは1910年にJulietteと結婚、RichardPontvert社を設立します。花婿は、ノウハウ、デッサンそして道具一式を、花嫁は資本金としての持参金を持ち寄ります。そして、Rémyは「Chaussures Extra」ブランドと洗練された高級シューズコレクションを立ち上げます。
いくつかの問題を乗り越え、Rémyは靴の経営を再開し、成功します。 彼は、レ・アル(パリの中央市場)の近所に倉庫を最初は借りその後購入します。それは、自分の顧客、デパート、そしてレ・アルの肉屋、魚屋、八百屋が行き交う小さなブティックのより近くにいるためだったのです。
1920年にRémyは、革製ソールのおしゃれ靴はもちろん、木製または釘付けされた革製ソールの労働者向け編み上げ靴の、両方の製造をより良く把握するために、Izeauxに最初の工場を購入します。 彼は、この労働者向け編み上げ靴を「Galbier」ブランドとして1922年に商標を登録します。
Rémy Richardの斬新さと自発の精神
19世紀の後半。アルプス山脈の麓にある小さな村、Izeauxから始まりました。 1878年、質素な農家に生まれたRémy-Alexis Richardは、Izeaux村にある靴工房20軒の一つ、Chevronの靴革裁断師 となります。 これらの工房は村の仲買人から注文を受けると、 革を購入、裁断し、 そして、注文の希望によって木製か革製に決めたソールに固定(釘付けか縫い付け)する前に、村付近の農民たちによって、彼らの家で裁断された材料が 組み立てられます。
Rémy Richardは、働き始めてすぐに、自分が働く工場のオーナーよりも大きな村の仲買人達の方がより多くのお金を儲けていることに気づきます。 そこで、彼は自分の運を試すことにしたのです:彼は、工場のエージェントとして、自分でデザインしたモデルのデッサンを持ってパリに行きます。
その方法は、成功したのです!彼は自分が働いていたIzeauxの工房に、自分がデザインした最初の靴を製造させ、パリの上流階級のお客に販売します。 そして、1908年に、Richardは、従業員を雇い始めます。